Mick Radio Memo

名も無きオンラインラジオのお喋り&台本担当ミックの反省と、何でもないようなネタのメモ。

青い屋根の小さなおうち

 私がはじめた名も無きオンラインラジオ(長いので今後は774ラジオと言おう。なんか周波数みたいだ)の第1回放送は散々たるものだった。

 そもそも私は機械という機械に弱い。テレビを叩いて直すまではいかないが、精密機器を取り扱うには少々思考回路が雑すぎるのである。幸いにもこの馬鹿げたラジオに誘ってくれた相手(今後こちらも面倒なのでミッチーと呼ぶことにしよう)が、PC系統に精通していたため、全部を丸投げした。文字通り一切私は関わっていない。やったことといえばSkypeのオーディオ設定でマイク音量を調節したくらいだ。

 

 そういえば言い忘れていたが、私は相方であるミッチーの事を知らない。オンラインゲームで知り合い、Twitterという呟き垂流しSNSでよく唸っているのをお互い目撃して、ペラッペラで中身の無いふざけ合いをしただけの仲である。

今知っているお互いの共通点は

①同じゲームをやっている

②ゲームのキャラが同じ種族で同じジョブである

③中身の人間が同じ性別である

④お互いの好物がエビと甘くない出し巻き卵

その程度だ。

 

相手の境遇も住んでいるところも顔も本名も知らない。

未だに偶に(相手がもしもボイスチェンジャーを使っている日本語がペラペラなロシアンマフィアだったらどうしようか)と考えたりもする。

その場合は仕方がないので、カラシニコフの裁きの下5.45ミリ弾で殺してもらおう。

 

さて、冗談は程々にして、ミッチーに機器の整備等々をお願いしたので、自分は台本を書いた。ふざけた文章を書くのは嫌いじゃない。

 ただ、冒頭部にこんな文章をいれた。

モータウンレコードだって、最初は小さな青い屋根の家がスタジオだったんだから。」

 

 モータウンレコードと聞いてピンと来る人は、洋楽が好きな人か、「ドリームガールズ」という映画を見たことがある人かと思う。正直なところ私も洋楽には殆ど触れてこなかったので、CMや映画をドラマで流れるタイアップ曲が耳に残っている程度だ。仕事上の関係でモータウンレコードというレコード会社を知り、たまたまその日が業務に余裕があったのでWikipedia先生に聞いてみたのだ。モータウンレコードってなに?

そういえば、2013年のトニー賞のオープニングでもニール・パトリック・ハリス

Hats off to Berry Gordy. He runs Motown like a boss. He dominates Top Forty and he banged Diana Ross! He wrote his own libretto which is really kinda ballin'. He took every Motown classic and he said "Ah, put 'em all in." 

って歌ってた。

 

※見たことがない人は是非見てみてほしい。トニー賞っていうのは、アメリカのミュージカルの最高峰、ブロードウェイで上演された作品のナンバーワンを決める、舞台版アカデミー賞だと思ってもらっていいと思う。これがオープニングだなんて正直な信じたくない笑 

【歌詞感謝】トニー賞授賞式2013オープニング ‐ ニコニコ動画:GINZA

 

結論から言ってしまえば、モータウンレコードとは「ベリー・ゴーディー・Jr.」っていう人が立ち上げたレコード会社で、全盛期の所属アーティストは、マイケル・ジャクソンを筆頭に、スティーヴィー・ワンダースプリームスダイアナ・ロス)、ライオネル・リッチー等々。

それまで、黒人といえばソウルミュージック。 魂の叫びみたいなシンプルでシブイ、いってみれば生活臭く暗い音楽ばっかりやってた黒人達が「俺達も世界的に受けるようなポップな音楽やろうぜっ」て始めた音楽がモータウンですってネットで調べたら書いてあった。

そんなスーパースター。そしてキングオブポップを生み出したレコード会社がモータウンレコードってところだったんです。そこは最初は小さな青い屋根の家の1階をスタジオにしていて、2階は住居スペースだったんだってさ。

別に私たちのラジオは世界の人に感銘を受けてもらおうとか、世界中にヒットするスーパースターになりたいとかそんな訳じゃないし、むしろ逆な位。大事にしてくれている身近な人達が1週間に一回でもくだらないことで笑ってくれたらいいなぁ、それだけのこと。それぞれの生活に疲れて帰ってきて、嫌なことも辛いことも上手くいかないことも沢山あるし、私たちだって苦しい毎日を送っているけれど、そのラジオの時間だけは、そんなことどうでもよくなるくらいしょうもない話が出来たらいいな。

そんな風に思う。

奇しくもラジオのブースをゲーム内に作ったんだけど、青い屋根の小さな家。最初から上手くいく訳ない。お金もない。実力もない。有るのは大事な仲間だけ。でもそれでいいじゃない。

そう。This is it.そうゆうこと。

 

 

 

宇宙旅行の時代はもうすぐ

 「オデッセイ」観てきました。
今年の映画の新作1本目だったのですが、面白かった。一緒に行った友人は号泣していました。圧倒的なスケールとなんか無茶苦茶な音楽チョイスとそして鋼メンタルすぎる主人公!かっこよかった!

一方私はというと、勿論感極まった部分もありましたが、立て続けに起こる困難に手に汗握りながらも、その状況を打開していく姿にワクワクしてしまいました。宇宙空間は未知、ロマン!それをたった一人で開拓していく男のアツさが半端じゃ無い。本当に火星であんなことが出来るんだろうかと思うと(制作はNASAや宇宙工学者の協力のもと緻密な計算をもとに、よりリアルなフィクションを作り上げたようです)本当に宇宙の可能性に夢が広がります。

恐らくですが、あの映画を観終わった人の半分以上は「宇宙旅行なんて行くもんじゃ無い」という感想に落ち着くと思います。「ゼロ・グラビティ」や「インターステラー」を観た方も恐らくですが同じでしょう。地球上で普通に生活しているよりも圧倒的に死が全身に纏わりついている空間です。針穴ひとつ、計算ひとつの狂いで生命は即活動を停止する。
けれども誰も見たことのない世界で一生見ることの無かったはずの世界。誰も知らない物質や新しい元素や有害物質、いやもしかしたら永遠の命を得られるようなものもあるかもしれない。それほどまでに何も知られていない場所に行くということは、学び得る、研究をするという場所では最高峰の場所だと思いませんか。

 日本にはJAXAという宇宙航空開発機構があります。日本の国立宇宙研究開発法人だったかと思います。私はまだその前身であるNASDAの時に宇宙飛行士訓練コースを受講させてもらいました。1週間筑波の宇宙センターの施設で、お揃いの青いツナギを着て、小学校高学年から中学生までの子供が40人弱。英語の授業から始まって、宇宙の現在解明されている物質やガス等の授業や宇宙センター内の見学。本物の人工衛星の研究施設を見たり、ロケット内のブリーフィーリングルームのセットの中でチームミッションをこなしたり。エネルギーの推進力の授業を元にペットボトルロケットを作って大会を開いたりしていた記憶があります。
 勿論子ども用に作られたプログラムでしたが、かなり本格的なもので、修了式の日にはチームのみんなと10年後研究者か宇宙飛行士の試験を受けに来てそこで会おうと盛り上がったものでした。

 当の本人は最年少でしたのでまだその時数学の厳しさを知らなかった無知な子どもでした。結論から言えば、三平方の定理で躓いた超文系人間には、宇宙工学を語る資格はありませんw

 今はそういった泊まり込みの研究合宿のようなプログラムは無くなってしまったようですが、大人になった今でもこうやって宇宙の話を聞くたびにその当時のことを思い出します。子どもの夏休みの1週間、当時は大したこと無い思い出でも、大人になった後では経験出来ないことも世の中には沢山あるようです。

火星ひとりぼっちは勘弁だけど(笑)
Dearワトニーなブランチ。f:id:mickradio321:20160211122320j:image

全てはラジオから始まった

 自分の家庭は小さい頃から実に変な家庭だった。

 テレビゲームが一般家庭にも流通し、平日の夕方にテレビ東京では様々なアニメが放送され、クラスでの話題も昨日のアニメやゲームの攻略で溢れていた。
 そんな中、我が両親はその事態を深刻に見ていた。このままでは子供はテレビにかじりつきになり、外に出なくなり、子供の時に体験できる様々な遊びができなくなるのでは無いか。
 それでも、新たな技術やエンターテイメントは子供にとって興味の尽きないものである。

 そこで両親は、家庭ルールとして「漫画とアニメとゲーム」という三種の神器を禁じた。

その代わりとは言ってはあれだが、放課後は習い事をさせてもらい、水泳や英会話、ピアノに習字にブラスバンド、伝統芸能の和太鼓に学習塾にも通わせてもらった。お陰で小学校卒業時の成績は断トツでトップで、親にも教師にも喜ばれたし将来を期待された。我が家は決して裕福ではなかったが、将来困らないための両親なりの思いやりが大人になった今となってはよくわかる。(過去形なのでその後の経歴は察して欲しい)

 中学校に上がり、英語の授業が出てきた。英会話教室に通っていたとはいえ、今思えば音で聞いて英語の歌を歌うだけ。意味もわからずになんとなく喋っているだけだった。お陰でリスニングとスピーキングはニュアンスで出来たが、文法と英単語の成績は破滅的だった。笑顔で、ぱーどぅん?って言って何とかなっていた、そんないい時代は終わってしまったのだ。

 英単語の学習帳には耳で覚えるようの発音CDが付属されている事が多い。なんとかして学習レベルに追いつくために、親は私にCDプレイヤーを買い与えた。

そのCDプレイヤーには3つの機能がついていた。
1つは単純にCDを再生するための機能。
2つ目はカセットテープを再生もしくは録音する機能。

 そして3つ目、それがラジオだった。

 それまでほとんどサブカルチャーに触れたことのなかった自分だったが、中間試験前の深夜に眠気冷ましと気分転換にラジオをつけてみた。周波数なんてものは当時は勿論わかったものじゃない。とりあえず音声が聞こえるラインまでグルグルと回していた。

 そこで初めて聴いたラジオが「林原めぐみのHeartful Station」だった。 よくわからない女の人が何かリスナーさんからのお手紙を読みながら、面白おかしく話を展開させていく。なんだ?これ、すごい面白いぞ!? よくわからないけど、とても面白い。

試験勉強もリスニングCDの存在もそっちのけである。これを本末転倒と親は後々呼ぶこととなる。

話は戻るが、林原めぐみさんは私にとっては声優でも歌手でもなく、最初はラジオDJとしか知らなかったのだ。しかも一人でずっと喋ってる。声色も様々で一体この人は何者なんだ。(声優さんでした)

 そこから毎日の朝刊を読むようになった。親は子供が時事ニュースに興味を持ったと感動したらしい事を後々聞いた。

が、勿論目当ては中面後半部分にあった、ラジオの番組表である。残念ながら自分の住んでいる地域では周波数の関係でラジオ日本が入り辛かった。そこで他に林原めぐみさんという人の番組は他に無いかと探し始めてたどり着いたのが、「林原めぐみのTokyo Boogie Night」である。TBSラジオの周波数を覚えてしまった瞬間だった。

 AMラジオの周波数を覚えてきて、文化放送というものを知った。 堀江由衣の天使のたまごこむちゃっとカウントダウン、森久保・朴璐美のポケ声ナイトからの宮野にバトンタッチしてのポケ声ファイトの時もよく知っている。内容がよくわからないまま、関俊彦の声が好きで、ルビーに口づけを聞いていたのは内緒だ。 今思えば大事故である。
 集英学園の乙女研究部なんかは元ネタわからないながら大爆笑していた。格別に好きだったのは、チェリベだ。これについては思い出が多すぎて言葉が出てこない。

そうそう。中学生にとっては、ノン子とのび太のラジオスクランブルまで行ってしまうと、深夜もう遅くだから寝ないと翌日の朝が辛いことはわかっていてよく焦った。 レコメンといえばK太郎さん、そして木曜は決まってこんばんワンツー。

FMラジオ放送もよく聞いた。坂本真綾さんの番組とかそんなところから始まって、ナック5のおに魂が大好きだった。玉川美沙ちゃんは元気だろうか。小林克也さんの番組を聞いて英語がしゃべれるようになりたくなったし、クリス・ペプラーの声が好きだった。 スクールオブロックやましげ校長やしろ教頭時代。BUMP大暴走時代である。やまだひさしのラジアンリミテッド福山雅治魂のラジオもお気に入りだった。

意外かと思うが、実はオールナイトニッポンは殆どきいたことがない。2時間というのは案外当時の子供にとっては長かったのだ。そしてカセットテープに録音しきれない弊害を持っていた。

正直サブカルチャーや芸能界に疎かったので、流石にジャニーズやマシャは芸能人枠だとわかっていたが、声優さんはことごとく全ての人をラジオDJだと思っていた。なんでこんなにお喋りが上手なんだろう、と思春期絶頂期口下手だった自分は色んなアイデアや話し方を勉強したものである。 

後々、思春期を過ぎ、ゲームや漫画がある程度責任の元家庭内で暗黙の承認を得た後で、ラジオの仕事が本職ではなかったことに愕然としたものである。 

 朴璐美に毎週フルボッコにされていた宮野真守が王子様の様なイケメンの声を当てているのだ。刷り込みとは怖いもので、暫く本人のキャラが先に出てきてしまい吹き出した。勿論今は、きちんと声優さんというお仕事を理解しているつもりではある。宮野くんは私の中でラジオDJさんから役者さんとなり、そして歌手になり、芸人さんになった。マルチタスクである。

そうそう。マルチといえば広井王子のマルチ天国を聞いていたので、今をときめく10周年DGSも初回放送を聞いたのをよく覚えている。神谷くんも小野くんも普通だった。どうしてこうなったのか。

その答えは裏で糸を引いている悪い奴がいたからである。DGSを聞きはじめ、そしてそこで私は初めて「構成作家」という仕事を知る。
勿論、ラジオをやっていらっしゃる方は皆さんプロなので話が上手なのは根底においておいて、その流れを作っていく仕事の偉大さを思い知ったのだ。

しかもその初めて知った構成作家諏訪勝氏が今まで私の思春期時代を培ってきた番組に携わってきたと知った時には、もう憧れるしかなかった。この人何者なんだ。


そんな思春期をラジオで成長してきた私だが、先日極身内向けにラジオのオンライン配信をスタートさせた。
 インターネットとは便利である。今は誰でもその気になればラジオDJの真似っこができる時代になったのだ。

  内容は暫くお世話になっているオンラインゲームの中で繰り広げられるあれこれだ。仲間内の子から『ラジオをやってみたいんだけど』と声をかけられた時は、ドキーーーン!!としたものである。ここ最近聞いていないあの私を夢中にしたラジオという単語が聞こえたぞ。

お恥ずかしながら、私はPC等の最新機器に弱い。エラーが起きても叩いてはならないことくらいは知っているが、内部スピーカーの音を配信とか、秒速で白旗を上げるレベルである。

相手がそれをやってくれると申し出てくれたので、代わりに自分が台本の作成を引き受けた。しかし、厄介なことにラジオので青春時代を過ごした自分には脚本を考えるのが最難コンテンツだった。プロと比較するのは失礼極まりないとわかっていながら、矢張り根底にあるのは、

構成作家諏訪なのである。

 結論から言えば、初回放送は正直散々だった。悩みすぎて台本を相方パーソナリティに渡したのが放送1分前である。完全に初見で目を通す時間もない。録画を見直したら滑舌も切り返しも実に自分は気の聞いていないものだった。そりゃあ、ど素人だから当たり前だと言われれば勿論そうなのだが。

それでも、なにか。想像だにしていなかった自分にとっての大きな憧れの舞台に立った気がしたのだ。リスナーなんて身内の10人足らずしかいない。それでも「思ったよりラジオになっていてびっくりした」「面白かった、来週も楽しみにしている」お世辞でも、身内でも、そんな言葉を貰って、嬉しくない人間がいるだろうか。

10人に聞いてもらって5人を楽しませることが出来たなら。 それは私にとって、自分がまるでスーパースターになった様な、そんな気分だった。


 そう、このブログは、これから始まるこの手に届く人に、声で楽しみを届ける、時代遅れで素人の、ラジオの話である。