全てはラジオから始まった
自分の家庭は小さい頃から実に変な家庭だった。
テレビゲームが一般家庭にも流通し、平日の夕方にテレビ東京では様々なアニメが放送され、クラスでの話題も昨日のアニメやゲームの攻略で溢れていた。
そんな中、我が両親はその事態を深刻に見ていた。このままでは子供はテレビにかじりつきになり、外に出なくなり、子供の時に体験できる様々な遊びができなくなるのでは無いか。
それでも、新たな技術やエンターテイメントは子供にとって興味の尽きないものである。
そこで両親は、家庭ルールとして「漫画とアニメとゲーム」という三種の神器を禁じた。
その代わりとは言ってはあれだが、放課後は習い事をさせてもらい、水泳や英会話、ピアノに習字にブラスバンド、伝統芸能の和太鼓に学習塾にも通わせてもらった。お陰で小学校卒業時の成績は断トツでトップで、親にも教師にも喜ばれたし将来を期待された。我が家は決して裕福ではなかったが、将来困らないための両親なりの思いやりが大人になった今となってはよくわかる。(過去形なのでその後の経歴は察して欲しい)
中学校に上がり、英語の授業が出てきた。英会話教室に通っていたとはいえ、今思えば音で聞いて英語の歌を歌うだけ。意味もわからずになんとなく喋っているだけだった。お陰でリスニングとスピーキングはニュアンスで出来たが、文法と英単語の成績は破滅的だった。笑顔で、ぱーどぅん?って言って何とかなっていた、そんないい時代は終わってしまったのだ。
英単語の学習帳には耳で覚えるようの発音CDが付属されている事が多い。なんとかして学習レベルに追いつくために、親は私にCDプレイヤーを買い与えた。
そのCDプレイヤーには3つの機能がついていた。
1つは単純にCDを再生するための機能。
2つ目はカセットテープを再生もしくは録音する機能。
そして3つ目、それがラジオだった。
それまでほとんどサブカルチャーに触れたことのなかった自分だったが、中間試験前の深夜に眠気冷ましと気分転換にラジオをつけてみた。周波数なんてものは当時は勿論わかったものじゃない。とりあえず音声が聞こえるラインまでグルグルと回していた。
そこで初めて聴いたラジオが「林原めぐみのHeartful Station」だった。 よくわからない女の人が何かリスナーさんからのお手紙を読みながら、面白おかしく話を展開させていく。なんだ?これ、すごい面白いぞ!?
よくわからないけど、とても面白い。
試験勉強もリスニングCDの存在もそっちのけである。これを本末転倒と親は後々呼ぶこととなる。
話は戻るが、林原めぐみさんは私にとっては声優でも歌手でもなく、最初はラジオDJとしか知らなかったのだ。しかも一人でずっと喋ってる。声色も様々で一体この人は何者なんだ。(声優さんでした)
そこから毎日の朝刊を読むようになった。親は子供が時事ニュースに興味を持ったと感動したらしい事を後々聞いた。
が、勿論目当ては中面後半部分にあった、ラジオの番組表である。残念ながら自分の住んでいる地域では周波数の関係でラジオ日本が入り辛かった。そこで他に林原めぐみさんという人の番組は他に無いかと探し始めてたどり着いたのが、「林原めぐみのTokyo Boogie Night」である。TBSラジオの周波数を覚えてしまった瞬間だった。
AMラジオの周波数を覚えてきて、文化放送というものを知った。
堀江由衣の天使のたまご、こむちゃっとカウントダウン、森久保・朴璐美のポケ声ナイトからの宮野にバトンタッチしてのポケ声ファイトの時もよく知っている。内容がよくわからないまま、関俊彦の声が好きで、ルビーに口づけを聞いていたのは内緒だ。 今思えば大事故である。
集英学園の乙女研究部なんかは元ネタわからないながら大爆笑していた。格別に好きだったのは、チェリベだ。これについては思い出が多すぎて言葉が出てこない。
そうそう。中学生にとっては、ノン子とのび太のラジオスクランブルまで行ってしまうと、深夜もう遅くだから寝ないと翌日の朝が辛いことはわかっていてよく焦った。
レコメンといえばK太郎さん、そして木曜は決まってこんばんワンツー。
FMラジオ放送もよく聞いた。坂本真綾さんの番組とかそんなところから始まって、ナック5のおに魂が大好きだった。玉川美沙ちゃんは元気だろうか。小林克也さんの番組を聞いて英語がしゃべれるようになりたくなったし、クリス・ペプラーの声が好きだった。
スクールオブロックはやましげ校長とやしろ教頭時代。BUMP大暴走時代である。やまだひさしのラジアンリミテッド、福山雅治の魂のラジオもお気に入りだった。
意外かと思うが、実はオールナイトニッポンは殆どきいたことがない。2時間というのは案外当時の子供にとっては長かったのだ。そしてカセットテープに録音しきれない弊害を持っていた。
正直サブカルチャーや芸能界に疎かったので、流石にジャニーズやマシャは芸能人枠だとわかっていたが、声優さんはことごとく全ての人をラジオDJだと思っていた。なんでこんなにお喋りが上手なんだろう、と思春期絶頂期口下手だった自分は色んなアイデアや話し方を勉強したものである。
後々、思春期を過ぎ、ゲームや漫画がある程度責任の元家庭内で暗黙の承認を得た後で、ラジオの仕事が本職ではなかったことに愕然としたものである。
朴璐美に毎週フルボッコにされていた宮野真守が王子様の様なイケメンの声を当てているのだ。刷り込みとは怖いもので、暫く本人のキャラが先に出てきてしまい吹き出した。勿論今は、きちんと声優さんというお仕事を理解しているつもりではある。宮野くんは私の中でラジオDJさんから役者さんとなり、そして歌手になり、芸人さんになった。マルチタスクである。
勿論、ラジオをやっていらっしゃる方は皆さんプロなので話が上手なのは根底においておいて、その流れを作っていく仕事の偉大さを思い知ったのだ。
そんな思春期をラジオで成長してきた私だが、先日極身内向けにラジオのオンライン配信をスタートさせた。
インターネットとは便利である。今は誰でもその気になればラジオDJの真似っこができる時代になったのだ。
内容は暫くお世話になっているオンラインゲームの中で繰り広げられるあれこれだ。仲間内の子から『ラジオをやってみたいんだけど』と声をかけられた時は、ドキーーーン!!としたものである。ここ最近聞いていないあの私を夢中にしたラジオという単語が聞こえたぞ。
お恥ずかしながら、私はPC等の最新機器に弱い。エラーが起きても叩いてはならないことくらいは知っているが、内部スピーカーの音を配信とか、秒速で白旗を上げるレベルである。
相手がそれをやってくれると申し出てくれたので、代わりに自分が台本の作成を引き受けた。しかし、厄介なことにラジオので青春時代を過ごした自分には脚本を考えるのが最難コンテンツだった。プロと比較するのは失礼極まりないとわかっていながら、矢張り根底にあるのは、
構成作家諏訪なのである。
結論から言えば、初回放送は正直散々だった。悩みすぎて台本を相方パーソナリティに渡したのが放送1分前である。完全に初見で目を通す時間もない。録画を見直したら滑舌も切り返しも実に自分は気の聞いていないものだった。そりゃあ、ど素人だから当たり前だと言われれば勿論そうなのだが。
それでも、なにか。想像だにしていなかった自分にとっての大きな憧れの舞台に立った気がしたのだ。リスナーなんて身内の10人足らずしかいない。それでも「思ったよりラジオになっていてびっくりした」「面白かった、来週も楽しみにしている」お世辞でも、身内でも、そんな言葉を貰って、嬉しくない人間がいるだろうか。
10人に聞いてもらって5人を楽しませることが出来たなら。
それは私にとって、自分がまるでスーパースターになった様な、そんな気分だった。
そう、このブログは、これから始まるこの手に届く人に、声で楽しみを届ける、時代遅れで素人の、ラジオの話である。